硝子戸の中

フィクションダイアリー
STAY CRAZY/FOREVER LOVE final『エド・ウッド』
『エド・ウッド』
〜史上最低の映画監督エド・ウッドと、
それよりヒドいキワモノ見世物映画の
すべてを網羅した
日本最初のガラクタ映画大全集〜(1995年)
はじめに
エド・ウッドなんてマシなほうだ!
映画生誕百年?
どうせまたマリリン・モンローとか
チャップリンだろ、ケッ。
なーんてツバを吐いていたら、
“映画史上最低の監督”
『エド・ウッド』の日本上陸だ。
こりゃめでたい。
というわけで、
エド・ウッドと、
彼が一生を捧げた
「エクスプロイテーション映画」についての本だ。
だけど、
「エクスプロイテーション」というと、
どっかのバカがまたオシャレなモノとカン違いしそうなので、
ここではあえて「サイテー映画」と呼んでみた。
何が最低かって、
まず作り手の意識が最低。
なにしろ、
Exploitってのは
「頭の悪い奴から金を搾り取る」という意味だ。
(中略)
この百年間に全世界で作られた映画の99.9%は
「サイテー映画」なのだ。
「映画が好き」と言ってる奴らのほとんどが
最上段の「イイ映画」だけしか見ていない。
丘の上の名所しか見ない観光客と同じだ。
眼下に広がる巨大なスラムを見てから言え!
町山智浩
何年か前、
たまたまBOOK OFF熱田店で手にした
この本をここまで立ち読みして、
僕は何度も吹き出しそうになるのを
グッとこらえていた。
こんな言葉使いで、
ここまで人をこき下ろしている本が
出版社から発売されて、
この世の中に存在していることが信じられなかった。
当時はエド・ウッドが誰かすらも
全く分からなかったが、
そんなことはもうどうでも良かった。
ただこの本の世界観に触れたくて、
ここまで言われてしまう
エド・ウッドが何者なのか知りたくて、
そのままレジへと向かった。
エド・ウッド。
世界最低の映画監督として、
今でもカルト的な人気を誇る映画監督。
才能もなく技術もない上に
お金も全くないが
ムダに女装癖があり、
何よりも自分は世界最高の映画監督だと信じてやまないエド・ウッド。
確かに彼が監督した世界最低映画として名高い
『プラン9・フロム・アウタースペース』(1959年公開)
を初めて観た時は
本当に自分の頭がおかしくなったのかと思った。
元々、
『プラン9』は
エド・ウッドの知り合いの中で
もっとも著名な俳優であり、
友人だった
ベラ・ルゴシと違う映画用に撮っていたフィルムが
ベラ・ルゴシが死んだことで余った際、
「これを使って、
『ベラ・ルゴシ 最後の作品』
として売り出したらヒットするんじゃないか?」
という思いつきから、
なぜか
「宇宙人が墓場から死者を蘇らせ、地球人を襲う」
というよく分からないストーリーを考え出し、
仲間を集め、
住んでいた家の大家を出資者として
お金を巻き上げて、
映画の撮影を始めた。
そんなきっかけでできた映画なので、
撮影時間の都合で
何の説明もなく
シーンの途中から昼と夜が切り替わったり、
一応SF映画になるが
円盤や墓石などの小道具は全て段ボールで、
何よりも酷いのは
ストーリーとして必要だった
ベラ・ルゴシの追加シーンに代役を立てたが、
それが別人なのが丸わかりで、
この本を読まずに観たら、
ストーリーも含め、
この同じ役を違う俳優がやっている意味が分からず、
序盤で観るのを断念していたくらいの出来栄えだった。
オーソン・ウェルズに憧れ、
彼の真似なのか、
金銭的な問題か、
製作、監督、脚本の全てを彼が一人で担った
エド・ウッドの作品は
基本的に
ストーリーが破綻しており、
カット割りも酷く、
映画として全く面白くない。
それでもなぜか
エド・ウッドの関連の作品は一時期よく観ていた。
『怪物の花嫁』
『グレンかグレンダ』
『死霊の盆踊り』
もちろん観ても
「酷い映画だなあ。」
と一人でゲラゲラ笑うだけで、
少しも面白いとは思えなかったが、
作品にはどこか憎めない
映画に対する情熱と愛情が感じられたので
好きだった。
エド・ウッドは
幼い頃から16ミリカメラで
自主映画を撮るほど
とにかく映画が好きで、
「自分もいつか最高傑作を作るんだ」
という情熱だけはいつでも持っていた。
ただ残念なことに
彼には才能と技術が足りず、
生前評価されることは一度もなかった。
しかし
没後、
彼の再評価に一役買ったのは、
まさかの
『シザー・ハンズ』や
『アリス・イン・ワンダーランド』
などの作品で有名なティム・バートンで
こんなトホホなエド・ウッドの生涯を
映画『エド・ウッド』
としてジョニー・デップ主演で製作し、
見事エド・ウッドの名を
世界中の人達に知らしめることに成功した。
ティム・バートンは
『エド・ウッド』についてのインタビューで
「エド・ウッドはアメリカでは
一種のカルトな存在になっている。
みんなそれを観てはゲラゲラ笑う。
たしかにすごいし、
おかしいんだけれど、
それでも彼には歪んだ詩みたいなものがある。
だからぼくはできるだけ彼を笑いものにはしないようにしたんだ。
ある意味では彼を理解できる。
(中略)
ぼくは彼にすごく近いものを感じている。
成功と失敗のあいだ、
才能と無能のあいだにはほんの僅かな差しかないんだから。
そのどちらに転ぶかは、
みんなが思っているよりずっと僅かな差なんだ。」
と語っていた通り、
ティム・バートン自身が
自分も元々は監督を志した一人の人間として
エド・ウッドを通して、
映画監督と夢について
振り返っているような内容だったのが印象的だった。
映画『エド・ウッド』のラストシーン、
周りからあれこれと口出しをされ、
映画の撮影に煮詰まったエド・ウッドが
撮影所を抜け出し、
とりあえず駆け込んだバーで、
彼をここまで映画に取り憑かせた張本人である
オーソン・ウェルズにたまたま出会う。
オーソン・ウェルズはもちろん彼のことは知らない。
彼は自分が大ファンであることを告げ、
今の現状を話し、
オーソン・ウェルズに助言を求めると
「夢のためなら戦え。
他人の夢を撮ってどうなる?」
とアドバイスされ、
彼はまた目を輝かせながら撮影所へと帰っていった。
この映画は
基本的にはノンフィクションで
僕が読んだ
『エド・ウッド 〜史上最低の映画監督〜』(1995年)
に出てくるエピソードが
割と忠実に再現されていたが、
このシーンだけは実際には全くなく、
完全なフィクションではあったが、
たとえフィクションの中であっても
エド・ウッドにオーソン・ウェルズを会わせてあげたかった
そんなティム・バートンの心意気には思わず涙が出そうになった。
もしかしたら
彼は才能や技術には恵まれなかったが、
世界中の映画監督の誰よりも
人として愛される才能を持っていたのかも知れない。
話は少し変わるが、
エド・ウッドをはじめ、
映画監督なら
ロジャー・コーマンや
ロイド・カウフマンもそうだが、
小説家なら
チャールズ・ブコウスキー、
ハンター・S・トンプソン、
日本だと
山田かまちや鈴木いづみのような
そういうヤバイ人たちに出会うと訳もなく嬉しくなる。
自分がなりたかった
狂人ギリギリの感覚と
表現への歪んだ情熱と愛情を持ち、
常識を脱した生き方を貫いた人たちに出会うと
いつでも年甲斐もなくワクワクしてくる。
いつでも僕は彼らのような存在を探してる。
だから
最近では
僕はサブカルチャーが好きなのではなく、
彼らのような存在が
音楽や映画、小説の中では
いくつもの年月を越え、
どこかの時代の誰かがちゃんと見つけられるように
色あせることなく生きていてくれているから
好きなんだと思っている。
人からよく
「なんでそんなこと知ってるの?」
だったり、
「なんでそんな音楽聴いてて明日、照らすやってるの?」
と言われることがある。
正直、
興味がないことは知らないことの方が多いし、
もし仮に詳しかったとしても
自分では
「広く浅いだけで中身はない」
と本音では思っている。
狂人に憧れただけのただの凡人が
特出した個性がない分、
知識で武装しているだけなので、
「浅はかだなあ。」
と自分でもよく思う。
ただ1つ誇れるものがあるとするならば、
情熱や愛情だけは常に持ち続けてきた。
好きになった監督、俳優、女優がいたら、
世に出た作品を軒並み観てみたり、
彼らが影響を受けた作品や役者がいるのであれば、
知った時点でそれも必ず見るし、
原作も読んで映画と見比べたりもする。
好きになったアーティストがいたら、
そのリリースされた作品を順番に一通り聴き、
中でも特に好きな作品があれば、
いくらでもApple Musicで聴けても
お金を出してCDやLPで
ちゃんと新譜で買うようにしている。
アーティストにお金がまわるように
また次に素晴らしい作品を作ってもらえるように
少しでも投資したい。
そういう気持ちだけはいつでも大切にしてきた。
だから
偉そうなことを言うようだが、
サブカルチャーに情熱や愛情を持っていない奴は、
すぐに分かる。
僕の場合はやっている分、
特に音楽についてになるが、
たまに情熱や愛情を全くもって接していない奴がいて、
目に余ることもある。
コレクションしたいのか、
とりあえず名前だけ寄せ集めて
形を整えたいのか知らないが、
あなたですら特に愛情を持ってない相手を
情熱もなく寄せ集めて、
組んで、
とりあえずやらせて、
何がしたいのか俺には全くよく分からない。
本当に俺の音楽を聴いたことある?
それすら疑わしい。
言わせてもらうが、
俺たちはポケモンじゃないんだから。
そこは売れてる、売れてないは関係ない。
そんな人に敬意のない行動は
単純に相手にも伝わる。
だから俺はいつも不快だった。
もし
「音楽に情熱と愛情を持っている」
と言い切るなら、
一回くらいは金払って、
時間作って誰かのライブを観に行け。
基本に戻れよ。
話はそれからだろ。
ただ
申し訳ないが
いつか色あせていくであろう存在に
俺は全く興味はない。
追記
村上友哉コラム『STAY CRAZY/FOREVER LOVE』、
長らくご愛読頂き、ありがとうございました。
このコラムで第1部完とさせて頂きます。
またどこかでお会いできる日を
楽しみにしております。
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STAY CRAZY/FOREVER LOVE 13『仲村みう』
『仲村みう』
先月、1人で大阪を旅してきた。
当初の目的はThe album leafの単独公演を観に行く事だったが、
日程的になんばグランド花月であった
ダイアンの単独ライブも
2日間大阪にいたら観に行けそうだったので、
両方チケットが取れたこともあり、
いきなり決まった三日間の小旅行。
こうやって
最初の目的地と最後の目的地以外は
特に予定を決めず、
ただブラブラと過ごした旅行は初めてで、
大阪の知人にも連絡をしずに
ただ1人やりたいことだけやろうと決めていた。
振り返った際、
三日間の思い出は色々とあるが、
やはり一番思い出に残っているのは、
東洋ショーになると思う。
東洋ショーとは
大阪にある老舗のストリップ劇場のことで、
二日目の夜に
カプセルホテルのベッドで横になりながら、
「NGK(なんばグランド花月)まで、
明日はどこに行こうかなあ。
てか大阪ってストリップあるのかな?」
とふと思い立ち、
ケータイで調べていた時にたまたま見つけた。
過去にビートたけしや渥美清、
コント55号などの芸人や役者たちが
浅草にあったストリップ劇場・フランス座で
ストリップの合間に
コントや漫才をして芸を磨いていたという話を知ってから、
「きっとストリップには
芸事の根元があるんだろうな。」
とずっと興味はあったが行ったことはなかった。
運良くこの日はかなり知名度のある
元AV女優も
引退前最後の遠征興行として出るらしい。
浅草のロック座(ストリップ劇場)を調べた時、
6,000円くらいの記憶があったが、
東洋ショーの料金は3000円と
大阪では浅草の半額以下で観覧できることを知って、
興味に拍車が掛かり、
「これはまじで行くしかない!!」
と1人カプセルホテルの個室で
息巻きながらも
一先ず明日に備えて眠りについた。
翌朝、
三日目はカプセルホテルから
チェックアウトしなければならなかったので、
CDやLPに本など
来た時よりも手荷物がかなり増えてきていたこともあり、
まずは難波駅でコインロッカーを探し、
身軽になってから、
東洋ショーが開場するまで
ディスクユニオンで買い物でもしながら待とうと梅田駅を目指す。
ディスクユニオンに着き、
買い物の時間を逆算するために
東洋ショーの場所を調べると
どうやらここから歩いて
30分くらいの場所にあることが分かった。
ディスクユニオンを出る頃には
またCDやLPを買い過ぎた為、
手持ちが財布の中にあと5,000円しかなかった。
「入場料3,000円だし、
結構今日まででお金も使ったし、
まだお金は降ろさなくてもいいか。」
電車賃の節約も兼ね、
また欲しいLPを買えて気分が良く、
天気も良かったので東洋ショーまで歩くことにした。
東洋ショーは勝手にGoogleマップの位置関係から
天神橋筋商店街のど真ん中にある気がしていたが、
商店街を抜けた
街並みの外れの場所にあった時は少しだけホッとした。
ディスクユニオンのビニール袋をぶら下げ、
マスクをした男が
こんなに天気のいい日曜日の真昼間から
ストリップ小屋に入って行くところを想像すると
自分でもさすがに
独身を拗らせてるなと思ったが、
はたから見れば
場所は全く関係なく、
独身を拗らせていることには変わりなかった。
開演30分前くらいに着くと
入り口で
再入場が可能なことを知り、
「とりあえず下見に。」と中に入る。
ストリップ劇場の制度は知らなかったが、
基本的には一回入場料を支払うと
同じ出演者による
一日5公演全てのショーを観覧できるらしい。
東洋ショーは
外から見ると
青一色に塗られた看板が
地方のビジネスホテルのように見えたが、
長い階段を上って中へ入っていくと
ロビーは中国のどこかの何かを
モチーフにしているような
薄暗く真っ赤な内装に
中華風の行燈が並び、
壁画に黄金の龍が描かれ、
お店の受付や売店で働く女の人たちは
もれなくチャイナ服を着ていて、
地方の中華料理店のような雰囲気だった。
お店の名前である東洋に掛けたのか
その真意は分からないが、
出来た当時はおそらくこれがモダンだったんだろう。
しかしまだ開演していないのに
ロビーには開演までの時間を持て余したかなりの人が待っていて、
出で立ち、顔付き、年齢層の高さ、
集まる人たちの誰を見ても確実に
元AV女優目当てのお客さんが大半な空気を察し、
「席取りだけして今ロビーにいるんだろうなあ。
このままだと座って観れなくなるかも。」
と当初は下見ではあったが予定を変更して、
僕もとりあえず席を取ることにした。
東洋ショーのロビーすぐ隣にあるフロアに入り、
客席を見渡すと
ステージから伸びた花道を囲むように
固定された席が三列ずつで5箇所に設置してあった。
ライブハウスの薄汚い環境には慣れているので、
あまり気にならなかったが、
1964年創業の名に恥じない
なかなか歴史を感じる店内で
元AV女優目当ての一見さんたちには
マスクがないと呼吸すらできなさそうな粗悪な空気があった。
「どっかで見たことがあると思ったら、
床の感じが今池HUCK FINNと同じだな。
でもあそこって1964年創業だったか?」
そんなことを思いながら一人でくすりと笑った。
最前列は埋まっていたので、
ステージ向かって左側三列目の席に
さっき買ったユニオンの袋で場所取りをすると
またロビーに戻り、
「せっかくだから。」
と景気付けに
ドリンクカウンターで缶チューハイを買って
1人で飲んでいた。
あとになって理由は分かったが、
ロビーには所狭しと沢山の人がいるのに
不思議なほど僕以外は誰もお酒を飲んでいなかった。
しばらくショーが始まるまで、
席に座り、
買ったばかりのレコードを眺めていると
フロアの明かりが消え、
簡単なショーの観覧ルールを伝える動画が流れたのち、
ショーが始まった。
1人持ち時間は約20分程度。
意外だったが
踊り子さんたちは
初めから裸に近い姿で出てくるわけではなく、
最初はほぼ露出のない衣装を着てただ踊り、
少しずつ服を脱いでは
何度かステージからはけて衣装を着替える度、
徐々に露出度の高い姿になっていった。
何よりも一番意外だったのはBGMで、
イメージでは三味線のような
和風のインストゥルメンタルか、
クラブの様なユーロビートに合わせて、
踊り子さんが踊ると思っていたが、
意外にもAKB48やきゃりーぱみゅぱみゅのような
割と最近の楽曲が中心に使用されていて、
また歌ありの曲がほとんどだった。
おそらく踊り子さんが
自分で曲を選べるのであろう、
中にはなかなか個性的な人もいて、
三上寛のようなかなり前衛的な弾き語りの曲に合わせて踊っていた踊り子さんもいたら、
70年代アイドルの曲ばかりを流す踊り子さんもいたりと
そのセンスに何度か度肝を抜かれた。
AKBやきゃりーぱみゅぱみゅの曲だと
曲自体に振り付けがある分、
踊りを考えるのも
また原曲を知っている分、
見ているお客さんをのらせるのも
比較的簡単だと思うが、
弾き語りで踊りを付けた踊り子さんの姿勢には、
「どうせ脱ぐのになんでわざわざ服を着替えるんだろう。」
と当初は疑問に思っていた自分が恥ずかしくなった。
ただ
僕も含めてだが、
元AV女優目当てのお客さんが多かった分、
おそらくストリップに
場慣れしていないお客さんが多かったので、
変なタイミングで手拍子が起きたり、
服を脱いだタイミングで起こる拍手がまばらだったり、
ステージ慣れしている踊り子さんになればなるほど、
やりにくそうではあった。
とりあえず場の空気を乱さないように
周りを伺いながら、
僕もずっと拍手や手拍子をしていた。
「それではここからはオープンショーでお楽しみ下さい!」
1人目の踊り子さんがステージを終えると
女性のハキハキとした声で
店内アナウンスが流れ、
さっきまで煌びやかな衣装を着て踊っていた
踊り子さんが
素肌に自分の名前が書かれたハッピを着ただけの状態で出てきた。
「オープンショーってなんだ?」
そう思いながら見ていると
踊り子さんは客席を見渡しながら、
自分の体を使って客席にアピールをし始め、
客席の所々でお客さんが
千円札を2つに折り、
縦長にしたおひねりを踊り子さんに直接手で渡し出した。
「オープンショーって、
おひねりをあげる時間なんだ。
おひねり料があるから
入場料があんなに安かったのかな。」
そんなことをふと思いながら、
周りの様子を眺めていたが、
思いの外、
ここでもあまりおひねりをあげている人がいなかった。
僕も剛に入れば郷に従おうと
財布を見たら入場料と缶チューハイを飲んでいたので、
1,500円しかなかった分、
1人しか渡せなかったが、
客席から身を乗り出し、
見よう見まねでおひねりを一回だけあげた。
踊り子さんと目が合うと
「ありがとう。」とにっこり笑ってくれて、
ちょっと嬉しかったと同時に
「あの時、
お金を降ろしておけばもっと楽しめたなあ。」
と少し後悔した。
踊り子さんの3人目と5人目が踊った後、
撮影タイムがあった。
一回500円支払えば、
着衣かヌードで好きな方を選び、
お店が用意したカメラで撮影ができるらしい。
撮影タイムが始まる度、
周りを見ていると
各自踊り子さんの前に長蛇の列が出来ていて、
ここでようやくみんなが
他でお金をあまり使わない理由が分かった。
この撮影タイムまで無駄な出費を抑え、
お金を残していた。
見ていると
オープンショーでは
体すら起こさなかった人たちが
おそらくお目当ではない踊り子さんたちにも
1人につき1枚ではなく、
平気で2.3枚ずつ撮っている。
「おひねりしないなんて、
いい歳してなんてケチな人が多いんだろう。」
と思っていたがそういう訳ではないようだ。
確かに
ただの缶チューハイで500円払うくらいなら、
おひねりの1,000円を一回あげたところで
踊り子さんが体を揺すりながらにっこり笑ってくれるくらいなら、
形として残るものがいいという気持ちも分からなくはないが、
なんかこういう場所で
そういう現金な考え方って嫌だなと思った。
この撮影タイムは観客の休憩時間も兼ねていて、
3人目の後にお手洗いへ行くと
受付で軽い人集りが出来ていた。
受付のお姉さんに向かって、
数人のおじさんたちが不機嫌そうに何かを話している。
お姉さんを囲んでいるのは
おそらく全国津々浦々と元AV女優を追いかけてまわる
親衛隊のような人たちなんだろう、
明らかに荷物の量からして、
県外から遠征してきた感じがした。
「次のショーまでの間、
店内清掃で一回外に出て次は何時から入場なんですか?」
「撮影タイムの時間制限は有るんですか?」
「サインは貰えるんですか?」
「内容確認してもらったら自分のカメラでもいいんですか?」
3.4人が受付で輪になり、
「分かりにくいんだよなあ。」
と口々に顔を見合わせては文句を言いながら、
お姉さんを問い詰めていた光景を見て、
「少しでも前の方で観たい気持ちは、
少しでも長く会話したい気持ちは、
分からんでもないとしても
そういうお客さんの存在が
応援している元AV女優の個人の評判まで落とすのに
何でそんなことも分からないんだろう。
ファンがそんなことしてたら本末転倒だろ?」
とお酒の勢いで気が大きくなり、
普段はそんなことを思いもしないが、
受付のお姉さんに
お客の立場を利用して
強く言い寄っている姿が見ていて
あまりにも腹立たしく、
思わず口から出そうになった。
大体、
誰だって少しでも得したいに決まってる。
損なんか誰もしたくない。
だけどそこにだけは固執したくない。
初めて来たくせにこんなことを言うのもなんだし、
人それぞれの楽しみ方があっていいと思うが、
もっと損得感情抜きで、
粋でいなせに嗜むのが本来のストリップショーじゃないのか。
ビートたけしの師匠であったフランス座の深見千三郎は、
ご飯を食べにいく際、
弟子のお会計を支払うのはもちろん、
必ずお店に祝儀(チップ)を用意していたらしく、
食事分のお金があっても
祝儀が出せない場合はお店に行かなかった。
さすがに
僕は並の人間なのでそこまでは無理だけど、
そういう粋な精神だけはどこかで持っていたい。
最後の撮影タイムでは
大トリに出ていた
元AV女優のところに
客席からロビーにまで続く
長蛇の列が出来ていて、
軽く見ても80人くらいは待っていた。
撮影料金は彼女だけ倍の1,000円だったが、
一切関係のない人気ぶり。
ただ 
「彼女にはおひねりも多いかな?」
と思ってオープンショーを見ていたが、
彼女にはなぜか一番少なかった。
この時点で
次の予定であるなんばグランド花月まで
もう一回くらいショーを観る時間は
十分にあったが、
一回見たら満足だったし、
ロビーにも次の公演を待つ人が増えていて
今客席にいる大半がこのまま居座ることを考えると
これ以上は入りきらない空気もあり、
他のお客さんに席を譲ろうと思った。
せっかく引退前に大阪まで来ているのだから、
少しでも多くの人が観れた方がいい。
そもそも手持ちもないので、
このまま居座られてもお店に得はない。
とりあえず残りの500円で
そのまま受付で記念に
今日出ていた踊り子さんたちが
全員並んでいる写真を一枚だけ買って帰ることにした。
東洋ショーからの帰り道、
UFJでお金を降ろし、
ふと寄った立ち喰いの寿司屋で
何気なくさっき買った写真を見てみると
あの薄暗いロビーでは分からなかったが、
信じられないくらい紙が粗雑で、
その上、
画質も荒く、
ピントも顔が誰で誰なのか
微妙に分からないくらい甘い写真で、
カウンター越しに出てきた寿司をつまみながら、
「なかなかやってくるねー。」
と1人くすりと笑えて僕にはちょうどよかった。
今はもう引退していないが、
グラビアアイドルの仲村みうが好きだった。
彼女との出会いは
10年くらい前に
ロマンポルシェ。・掟ポルシェさんのブログを見ていた時、
「最近、(仲村)みう嬢のブログがヤバイ」
的な記事を見かけたのが最初で、
その頃は誰か全く分からなかったが、
貼ってあったリンクから
何となく彼女のブログを見てみると
ブログ内で
「リクエストがあったらその写真撮って載せるので、
コメント欄にリクエスト下さい。」
と書いてあった。
「どうせ適当に見繕って、
やれそうなやつだけあげるんだろうな。」
と思っていたが、
次に更新されたブログから
本当にAV女優と見間違えるほどのアイドルとは思えないような
下着姿や入浴シーン、
谷間、股間、鎖骨のアップなどのフェチズム満載の
ギリギリな写真がブログに沢山載っていた。
おそらく当時彼女はまだ16.7歳くらいで
「え!?
この子、アイドルじゃないの?
なんでここまでするの!?
この人、何者!?」
という性的な衝動が人間的な疑問に変わり、
そこから彼女自身に興味を持った。
最初は正直そこまで可愛いと思っていなかったが、
気がついた頃には
東京であった
彼女のトークイベントに後輩を引き連れて行くほど、
彼女のことを追いかけていた。
彼女は頭が良かった。
どうしたら自分がよく相手に写るのか、
自分は何を求められているのか、
それがちゃんと分かっていた。
グラビアアイドルとして
性を売り物にしていたが、
自分が性を売り物にしていることへのプライドがあり、
嫌味な言い方かもしれないが、
お客さんからお金を引き出す
その引き出し方が上手だった。
そういうところも好きだった。
タレントでも実生活でも
お金を使わせるのが上手な女の子は
「別にこの子なら騙されてもいいか。」
と思えるから、
嫌な後味がなくていい。
20歳でヌード写真集とDVDを出して
引退をしてしまい、
今では彼女が何をしているのか分からない。
そんな中、
去年、
「彼女が名古屋の風俗店で働いていた」
というネットニュースを見た時は本当に驚いた。
まさか名古屋にいるなんて思ってもいなかった。
ただネットニュースになるので、
信ぴょう性は分からないし、
これは完全な憶測になるが、
彼女は宣伝用にお店に写真を売っただけで、
おそらく風俗店では働いていなかったんじゃないかと思う。
僕が思う彼女だったら、
おそらくもう少し頭のいいお金の稼ぎ方を知っているように思える
東洋ショーで僕がいた左側の席から
ちょうど踊り子さんたちが
ステージから
ステージ袖の衣装部屋にはけるところが見えていた。
踊りが終わるたびに
にっこりと頭を下げてお辞儀をした後、
客席から見えるところまでは
ゆっくり堂々と退場して行き、
客席から見えなくなると
急いでステージ袖に走り、
袖のカーテンをおもむろに閉めると
すぐに衣装を脱いで
次の新しい衣装に着替えている光景が
慌ただしく閉められた
薄いカーテンの隙間から
ぼんやりとずっと見えていた。
冷静に考えると
どうせ最後は裸になるんだし、
基本的にお客さんも裸を観に来ているんだし、
わざわざステージ袖で着替えなくても
ただずっと裸でいたらいいものを
ステージから見えないように
新しい衣装を
出来る限り早く着替えようとする彼女たちの姿。
あのカーテン越しに見えたものは、
裸を晒してお金を貰う人間から出る悲壮感ではなくて、
芸事として裸になる人間のプライドだった。
そうだよ、
ここにいる奴等全員から
もちろん俺からも
金をふんだくれるだけ、
ふんだくっちゃえばいいんだよ。
フランス座に興味があるとか、
粋だとかいなせだとか
人の行動を見て
「本末転倒だ」とか、
「僕は他の人に席を譲ろう」とか、
そんな偉そうな御託を並べたところで、
性的な好奇心で女の子を見てる男なんて
どの道、
全員カスなんだから、
そんな奴らからの金なんて
女の子を武器に
根こそぎ取れるだけ取ればいい。
それで楽屋で大笑いしてくれ。
「今日はしょっぱい客しかいないから、
おひねりが少ない。」って。
「アホな客が多いから、
今日はすげー儲かった。」って。
それでいいんだよ。
てかさ、
水着の仕事だって同じだったんじゃないか?
「性的な対象として見られるのが嫌だった。」
って、
「「こんなで喜ぶ奴はまじ最低。」 
って思われてんのに、
みんなして喜んで見てんだ。
バカじゃないの?」
って腹の底から笑って、
楽しんでやれば良かったのに。
仕事なんだからもっとクレバーになればいいよ。
てかそういうタイプじゃなかったの?
すげーサブカル感出して、
ツイッターとかやってなかった?
あれは20代女子特有の見せかけのサブカル感?
全ての性産業に従事する女たちよ、
ふんだくってバカにして、
ナメくさった奴らを全員損させてやれ。
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STAY CRAZY/FOREVER LOVE 番外編『村上政雄について』
番外編
『村上政雄について』
あれからもう4年くらい経つんだなあ。 
当時、 
僕は大学2年生で、 
ものすごくいきがった19歳だった。 
何か分からないけど、 
自分は人にはない 
力があると思っていたし、 
周りの奴はみんなバカだと思っていた。 
JPOPなんか最低で、 
洋楽がいかに素晴らしいかを毎日考えていた日々。 
思い出すだけで死にたくなる 
誰もが経験する10代最後の年。 
今でも昨日の事のように鮮明に覚えている。 
だから多分、 
ばあちゃんに電話した時、 
「じいちゃんは?」 
と今でも言いかけるんだろう。 
じいちゃんがそろそろ危ない。 
という話になったのは、 
たしか10月くらいだったと思う。 
それまでもなんとか持ちこたえてきたが、 
胃から発生した癌の転移がもう手遅れで、 
胃を切ったもののあと数カ月の命だと言われた。 
その時、 
なんて医療っていうのは、 
不確かな物なんだろうと思ったのを覚えてる。 
切らなきゃ分からないなんて、 
頭の輪切りまで見れる時代なのに。 
ますます家の中はもうぐちゃぐちゃになり、 
親父は親戚と揉め、 
お袋は滋賀の病院と愛知の往復で、 
姉は看護士二年目で自分で精一杯だったし、 
りょうじも高校三年生だったので 
そんな頻繁に行き来できなかった。 
そこにきて僕は気楽なもので、 
大学2年のあってないような時間の中、 
ふらふらと大学にも行かず 
たまに滋賀に行って、 
じいちゃんに会う為にもらったお金で、 
米原でうどんを食べたり、 
路地の路地くらいの道に入っては 
定食屋を探したりしていた。 
生まれてきてすいません。 
あの日もたしか休み過ぎて 
休みになった講義の日、 
じいちゃんに会いに行ったんだった。 
胃を切り取られてから、 
別人のようにめっきり元気もなくて、 
抗がん剤治療はしなかったので、 
まだましだったが 
姿も昔の面影がなくなっていた。 
さっきちらっと触れたが、 
親戚と親父が揉めた理由はここにあって、 
僕の姉と親父の弟の奥さんは看護士で、 
選択として抗がん剤は当然だった。 
可能性があるのならば、 
それに賭けるという考え方。 
しかし、 
親父はまったく違って 
薬の副作用でのたうち回り、 
毛という毛も抜けるような 
辛い思いをして 
長生きするくらいなら、 
そのままの方がいいという考え方だった。 
結局、 
本人の意思はという事になり、 
抗がん剤は使わない事になった。 
そういえば親父が言ってたんだけど、 
何十年も三菱でエレベーターを作ってたから、 
考え方がだめなら終わりにして、 
また次にいくって感じなんだって。 
多分、 
不器用な親父なりの優しさだと思う。 
あの時、 
話す話もだんだんなくなってきて、 
僕はぼんやり窓から外を眺めていた。 
ばあちゃんは花瓶の水を変えながら、 
別に二人が黙ってるのを 
気にしてないみたいだったけど、 
僕は内心、 
次は何を話そうか、 
頭をフル回転して必死だった。 
すると、 
普段は無口のじいちゃんが珍しく話し出した。 
「とも、 
最近バンドはどうだ?」 
僕は驚いた。 
そんな話、 
じいちゃんからするなんて思ってなかったし、 
興味もないだろうと思ってたから。 
「うん、まあまあだよ。 
前に比べたら徐々によくなってきたかなあ。」 
と言い終わらないくらいのタイミングで 
ばあちゃんが、 
「まあ、ある程度のところできりつけなきゃね。 
それじゃ生活できないんだからね。」 
と言われた。 
「お前はちょっと黙ってろ。」 
じいちゃんが突然怒った。 
「とも、 
もしお前がこれからバンドを続けてくなら、 
必ず何があってもまじめにやるんだぞ。 
まじめにちゃんとやっていたら、 
見てる人は見てるんだからな。 
それだけは絶対忘れたらいかんぞ。」 
「…う、うん、分かった。 
あ、ありがとう。」 
そして 
何事もなかったかのように、 
また無言が続き、 
じいちゃんは寝てしまった。 
それから次に会った時、 
じいちゃんは呼吸器をつけていて、 
言葉は一言も話せなかった。 
あれが僕への遺言。 
まじめ一本に生きてきたじいちゃんが出した答え。 
じいちゃん、 
俺、 
言われたようにまじめにやってるよ。 
女の子もたぶらかしたりしないし、 
つまんない因縁つけたりしてないよ。 
だからさ、 
あんなクズバンドより 
多くの人前で歌えるようになるかなあ。 
あの時、 
突然過ぎてちゃんと言えなかったんだけど、 
本当にありがとう。 
俺があげた俺のバンドのステッカー、 
なくさないようにいつも見える場所に 
置いててくれたの俺 
今更、 
気がついたよ。 
2008年08月19日16:28
mixiにて書いていた日記より
追記
滋賀のばあちゃんの話を書いたので、
じいちゃんの話も。
今でも僕の生きる上でど真ん中にある日のお話。
確かに幼稚なところもあるけど、
このエピソードについては
今書き直したところで、
この勢いと熱量にはたどり着けませんでした。 
写真は書いた当時の私。
毛量、どうなってんの?
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STAY CRAZY/FOREVER LOVE 12『BLINK182』
『BLINK 182』
知り合いのスタジオに何かの届け物をしに出かけた日のこと。
簡易なレコーディングもやっていたそのスタジオで、
その日はパンクロックバンドのレコーディングがあったみたいで、
お店の知り合いの店長からは
「レコーディングしてたらちょっと気まずいかも。
別日でもいいよ。」
と言われていたが、
日程的にその日しかなかったので、
「パンクって言ってもバンドマンだから、
悪い人なんかいないし、
大丈夫でしょう。」
と別に気にしていなかった。
当日、
スタジオに行き、
「お疲れ様でーす。」
とロビーの扉を開けると
椅子に並んで座っていた
パンクロック風の男達5.6人が僕を見ていた。
レコーディングの休憩中だったんだろうか。
メンバーの風貌と雰囲気を見て、
「ただ直接的に言わなかっただけで、
あの人が言いたかったのは、
「今日はやめといた方がいいよ。」
ってことだったんだな。」
と瞬時に察知する。
おそらく僕よりも10歳は年上で
髪の毛は逆立てているか、
長く伸ばしっぱなしにしており、
腕には刺青を入れ、
もれなく全員革ジャンを着ている。
何よりもなぜか目の前の僕を
全員が睨みつけていて、
不自然にならないように視線を外しながら、
「こんな人達、
普段仕事したり、
バイトできたりするの?
生活どうしてんの?」
と疑問で仕方なかった。
そんな中、
バンドのリーダー格であろう
一際人相の悪い1人が
いきなり僕に向かって、
「なんや?お前?」
と吐き捨てるように言った。
あまりに突然過ぎてまた面食らう。
「あ、あの、
店長さんはいらっしゃいますか?」
「店長は、」
「…はい?」
「死んだよ。」
「えっ?」
「あーはっははは!」
「…。」
「ひーはっはっは!」
「…。」
1人の「死んだよ。」の一言を皮切りに
全員が信じられないくらい笑い出した。
今、
目の前で起きている光景は何なのか、
何が起きているのか一瞬分からなかった。
「あっ、ともやじゃん。」
と言われて振り返ると
知り合いの店長がいて、
すぐに届け物を渡すと
「ちょっと用事がありますんで。」
と脇目も振らずに帰った。
もちろん用事なんて何もない。
ただこの場をすぐに立ち去りたかった。
帰り道、
トボトボと歩きながらずっと考え事をしていた。
「あれが本当にパンクなのか?」
10代から今の今まで
僕がずっと大切にしてきたことが
全て否定されたような
そんな気分だった。
16歳の高校1年生の時、
クラスの同級生だった道久(みちひさ)と知り合った。
クラスで僕がギターを弾いていることを知った彼が
ある日突然、
「村上くんってギター弾けるんだよね?
俺もギター弾くんだよ。
普段、何を聴いているの?」
と僕に話し掛けてきた。
「ゆずとか19とかそういうのだよ。
道久くんは?」
と聞くと
「洋楽が多いかな?」
と言われた。
あの頃はまだ洋楽なんて未知の世界だった。
当時、
ちょうど映画『アルマゲドン』が流行っていて、
主題歌である
エアロスミスの『I DON'T WANT TO MISS A THING』が
テレビやラジオでよく流れていたので、
「いい曲だなあ。」
とラジオから流れてきた曲をカセットテープに録音して、
たまに聴いていた程度で、
そこから深く掘り下げたり、
他の曲を聴く機会もなかった。
周りに誰も洋楽を聴いている友達も知り合いもいなかったので、
自然とそういう話題になることもなく、
そこで僕の興味は終わっていた。
「エアロスミスとかくらいしか分からんなあ。」
と答えると道久は
洋楽のCDとかPVとか色々あるから今度うちに遊びにおいでよ。
と僕を誘ってくれた。
それからしばらく経ったある日、
僕の家から自転車で30分くらい離れていた
隣町の道久の家に遊びに行った。
彼の家は当時、
かなり老朽化した古民家ではあったが、
元々昔は何かの工場だった間取りの分、
信じられないくらい広く、
道久の部屋は親の部屋とは独立した
2階で10畳くらいのスペースにあった。
いくら音を大きくしても別に怒られたりしないらしい。
僕の家では親との取り決めで、
夜の21時以降はギターを弾く事を禁止されていた。
彼の部屋に入ると
山ほどのCDにビデオ、
テレビ、
レコードプレーヤー、
エレキギターとアンプ、
色んなバンドのポスターが部屋中に貼ってあり、
僕の部屋にはない物がたくさんあった。
「まあまあ座ってよ。」
辺りをただキョロキョロしている僕に
道久はそう言うと
スペースシャワーの洋楽チャンネルで
流れていたPVをVHSに録画した
彼自作のPV集を見せてくれた。
まず最初に当時彼がハマっていたマリリン・マンソンの
『The Beautiful People』のPVが
ブラウン管から流れる。
「…!」
衝撃その1。
歌がいいとか悪いとか、
それすらよく分からない。
まず白塗りした男がクネクネ動いていて、
普通に気持ち悪い。
というか、
これは歌なのか何なのかよく分からない。
感想が言えずに
どうしようもなく困っていると
次にLIMP BIZKIT『Nookie』のPVが続く。
「……!?」
衝撃その2。
英語のラップを初めて聴いたから、
何を言ってるのかよく分からないけど、
ライブ感のあるPVが
曲の良さを引き立てていて、
なんかめちゃくちゃかっこいい気がする。
てかベースとかギターの弦が多くないか?
「なんかすごいね。
よく分からないけどかっこいいねー。
なんか弦多くない?
てかこの人、
ニューヨークヤンキースの赤い帽子がトレードマークなの?」
そんな話をしていると
GREEN DAY『Redundant』のPVが流れた。
「………!!」
衝撃その3。
てかバンドが変わる毎に衝撃的過ぎて、
ついていけない。
ただこのバンド、
めちゃくちゃキャッチーだし、
鼻歌で口ずさみたくなるくらいメロディがいい。
というか他のバンドと違って、
メンバーが3人しかいなくてギター弾きながら歌ってる。
この前Mステで見たトライセラトプス以外にもこういうバンドがいたんだ。
「これ、なんてバンドなの?」
と曲の途中で思わず聞くと
「GREEN DAYだよ。」
と教えてくれた。
「グリーンデイ!これが1番好きだなあ。」
「ともやはパンクが好きなんだね。」
「パンク?」
「グリーンデイはパンクだよ。」
「パンクって革ジャン着たり、
髪の毛逆立てたりしてるやつ?」
「そういうのもあるけど、
こういう普通の身なりの人がやってるパンクもあるよ。
歌ってるビリーはこう見えて、
ライブ中ツバ吐きまくるし、
楽器も壊すし結構めちゃくちゃやるよ。」
「へー。こんな普通の感じなのにね。」
ステージでツバを吐いている人を見た事がないし、
楽器を壊すバンドも
昔バリバリの衣装を決めた
hideがMステで壊しているのを観た事があったくらいだったので、
このTシャツとジーパンの普通の身なりの3人組からは到底想像がつかない。
そういえばあの時テレビを観ながら、
お袋は目を背け、
親父が
「自分の商売道具も大事にできん奴はろくでもない奴だ!」
とテレビの中のhideに向かって怒っていて、
僕も
「勿体無いことする人がいるんだなあ。」
と思いながら観ていた。
楽器を壊す=パンクなのであれば、
村上家には全く理解がなかったので、
僕が「パンク好き」だと言われても
ピンとこなかった。
それから何度か道久の家に通うようになり、
「GREEN DAYが好きだったらこういうのも好きかも。」
とそんな中で出会ったのがBLINK 182だった。
トム、マーク、トラヴィス。
僕はアルバム『エニマ・オブ・アメリカ』で
1曲目の『Dumpweed』を聴いた瞬間から
このバンドの虜になった。
どこにでもいそうなアメリカ人3人組が
誰でもやれそうなシンプルな曲を
誰もやってなかった方法論で音楽を作っている。
とにかくリズムのパターンと
ギターのリフが独特で、
ちゃんと3人で始まって3人で終わっているのに
曲毎に違う発想があって飽きることがなかった。
もちろん当時、
そこまで難しいことは考えてなかったと思うが、
多分そんな印象だった気がする。
またアルバムの歌詞を読むと
「初めてのデートのこの時間が終わらなきゃいいのにな」とか、
「両親は何にも分かってくれないんだ」
みたいな10代のあるある要素が強い
身近な出来事ばかりで、
そこもまた共感できた。
身近とはいっても
ゆずや19のような分かりやすい歌詞ではなく、
アメリカ人特有のユーモアのある
ワードのセンスが面白かった。
「…か、かっこいい!俺もバンドがやりたい!」
こうやって
世界中の同年代が熱狂したように
僕もBLINK 182の洗礼を受けた。
「俺、
今度またバンド組もうと思ってるんだけど、
ともやも一緒にやらない?
ちょうどドラムが空いてるんだけど、
ドラムとかどうかな?」
道久は地元・一宮市のライブバーで
中学生にして、
ライブをやったことがあった。
ライブハウスでライブをするなんて
文化祭で友達とゆずの『夏色』を弾き語りしただけの
僕からすると
違う世界の出来事のような話だった。
BLINK 182を聴いてからは、
トラヴィスに憧れていた僕は
二つ返事でそのバンドにドラムとして入ることになり、
「今度、メンバーのベースを紹介するよ。」
と言われて出会ったのが、
道久の中学の同級生の伴だった。
大学1年生で初めて行った
サマーソニックでBLINK 182を初めて観た時のことを
昨日のことのように覚えている。
BLINK 182が決まった瞬間、
道久とたつや(CRAZY興業/小中高の同級生)とチケットを買うことを決め、
新幹線に乗るお金がないので、
近鉄の在来線を乗り継いで大阪に向かった。
「せっかくだから。」と
2日間の通し券でチケットを買っていたが、
2日目がBLINK 182だったので、
1日目が終わった後、
泊まる当てがなく、
近くの電話ボックスでタウンページを開いて、
近隣のカプセルホテルに手当たり次第電話をし、
サマーソニックの会場から
少し離れた場所のカプセルホテルに泊まった。
カプセルホテルのロビーには
ほとんどの人が
サマーソニックのパスをつけている人ばかりで、
勝手に親近感が湧いて、
何だか嬉しかった。
そんな中、
お風呂上がりにたまたま座ってると
隣にいたお兄さんに
「何を観にきたはったんですか?」
といきなり声を掛けられた。
戸惑いながらも
「ブ、BLINK 182です。」
と答えると
「あーブリンク!
でもZEBRAHEADと被っててどっち行こうか迷ってたんですよね。」
と言われ、
「嘘だろ!?
BLINK観ない人がいるんだ!
8年ぶりの来日なのに!」
と心の底から驚いた。
次の日になり、
お昼が過ぎて、
前の方を陣取っていると
転換で
金色に輝くトラヴィスのドラムセットが出てきた。
それだけのことでフロア中から歓声をあがり、
僕もため息まじりに大声を出しながら
日本にいる誰しもが
この瞬間はどれほど待ち望んでいたか、
あの光景だけで気持ちは同じなんだと確信できた。
スタッフの長いサウンドチェックが終わり、
メンバーが出てきた時には
歓声は一際大きくなり、
今自分の目の前にメンバーがいることが信じられなかった。
イメージよりも3人とも一回り大きい。
メンバーが出てくるなり、
隣にいた同い年くらいの
きっと留学生か
ホームステイだと思うが、
白人の男の子がいて、
その隣にいた同い年くらいの日本人の男の子が肩車をし始め、
白人の男の子が
「STAY TOGETHER FOR THE KIDSー!」
とステージへ向かって叫び出して、
僕も道久に肩車をしてもらい、
Tシャツを捲り上げて
朝カプセルホテルで道久に
トラヴィスのタトゥーを真似て
マッキーで書いてもらった
お腹のラジカセの絵を
トラヴィスに向かって見せ、
「トラヴィスー!ルック!ルックディス!」
と負けじと叫んでいた。
一曲目は『Family Reunion』という
短いジョークソングだった。
そこがまたBLINK 182らしかった。
ライブが始まると
トラヴィスは腕が何本あっても足りないような
ドラムフレーズを連発し、
トムが卑猥なダンスで客席を挑発して、
マークもステージを走り回り、
瞬きが惜しいくらい
ずっと目が離せなかった。
トムが
『STAY TOGETHER FOR THE KIDS』
のイントロを弾いた瞬間、
周りを見渡したが揉みくちゃになっていたので、
叫んでいた白人の男の子は見つけられなかった。
その日、
新曲『Go』をやり、
MCで新しいアルバムのレコーディングに入ってることを話していて、
アルバムが出たらまたツアーで来てくれるんだと思うと
顔がにやけてたまらなかった。
今でもたまにバカにされるが、
この時のサマーソニックのヘッドライナーはBLURとRADIOHEADで、
僕たちは帰り道、
混むのが嫌で2組とも観なかった。
ほとんど興味がなかったし、
BLINKさえ観れたらあとはどうでも良かった。
それくらい好きだった。
BLINK 182がいなかったら、
多分僕はバンドをやっていなかったと思うし、
今でもディスクユニオンでパンクコーナーから
見に行くほど
パンクへのめり込むこともなかったと思っている。
パンクの歴史から考えると
小さなトピックではあるが
BLINK 182は
BLINK 182前、
BLINK 182後と分けられるくらい
2000年代の
一つの時代のアイコンになっていて、
これはいい意味ではなく、
オールドスクールのパンクファンからすると
「BLINK 182の出現でパンクがチャラくなった。
あれはパンクじゃない。」
とも言われている。
そもそもジャンルでいうと
BLINK 182はパンクではなくて、
そこから派生したポップパンクになるので、
パンクで分けるのもまた違うとは思うが、
確かにBLINK 182以降は同じようなバンドが
山ほどいて、
毎週のように
ポップパンクバンドのCDが
CDショップの店頭に新作として並んでいたし、
毎月日本のどこかで
ポップパンクバンドの来日公演があった。
そういった現象を世間では、
モールパンク(ショッピングモールで買えるような安物のパンク)と揶揄され、
常にバカにされていた。
当時はこの評価に対し、
かなり腹立たしさを感じていたが、
今多少大人になって振り返ると確かにそうかもなとも思える。
社会的で政治的な不満もなければ、
戦争や世間に問題を訴えかける曲でもなく、
ただ恋人のことや生活の中にある出来事を
下ネタやジョークを交えて
ポップなメロディーに乗せて歌う、
そんなものは
アウトローの精神を基盤に持つ
パンクでも何でもないと言われたら仕方がない。
でも
身勝手な解釈だと思うが、
当時はグランジブームの後で、
ポップパンクの出現は必然だった気がする。
僕たちの世代は
先駆者達が戦い、
勝ち得た権利のおかげで、
社会に噛みつくほどの不満を抱けるほど、
社会に不満を持っていなかった。
そしてあの頃の10代20代には
将来への漠然とした苦しみや過去のトラウマを歌う
一聴しても難解な暗く重いトーンの音楽が
ちょっとずつ身の丈に合わなくなっていた。
そんな時代を象徴していたのが、
ポップパンクであり、
僕が出会った最初のパンクでもあった。
高島屋や松坂屋で買えるような高価なものには
手が出ず、
また魅力も感じられず、
身近で価格帯もお手頃なショッピングモールの存在が
世間で必要とされてきたように
その時代にはその時代を生きる人たちの生活があり、
その時代にはその時代を生きる人たちの音楽があって、
その時代に必要とされるパンクがある。
解釈は人それぞれだと思うが、
僕は別にそれでいいと思う。
ただそれを踏まえた上で
言わしてもらうが、
あの時に会ったお前らが
もし本当のパンクなんだったら、
俺はパンクなんかもう二度と聴かない。
部屋にあるCDもレコードも全部売ってやるよ。
嘘じゃない。
誓ってもいい。
そもそもお前らは根本が間違ってる。
ただ革ジャンを着て、
人を邪険にしたり、
堕落した生活を送ることがパンクだと思ってる以上は、
お前らなんか所詮パンクロック風止まりだよ。
シド・ヴィシャスのコスプレイヤーの集い。
つかお前らが1人でも俺に同じ態度が取れたんか?
電車ではしゃぐ中高生じゃないんだからさ。
仲間で群れて、
パンクに甘えてんじゃねーよ。
安物のパンクに
お前らから成り下がってどうすんだって。
10代ならまだしも、
いい歳していい加減それくらい分かれよ。
そうやって一生、
身内ノリで死ぬまで音楽やってろ。
追記
今更、
僕なりのパンク生誕40周年に向けたお祝いコメントでした。
写真は実家の部屋に貼ってあるポスターです。
当然8億円の価値はありませんが、
思い入れがあり過ぎて、
これ1枚さえ燃やせない僕は
まだまだあまちゃんですね。
(もちろん右側ね。)
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STAY CRAZY/FOREVER LOVE 11『ストレイト・ストーリー』
『ストレイト・ストーリー』
彼女は88歳で1人東京に住んでいた。
女性として初の大手保険会社の相談役にまでなった
キャリアウーマンのはしりのような人だったらしく、
そんな仕事メインの生活だったからか
結局一度も結婚はしなかった。
独身生活を謳歌しながら、
今でも普段から毎日ビールを飲み、
タバコはピースを吸っているらしい。
信じられないくらいパワフルな生き方だ。
いつNHKの連続テレビ小説の主役のモデルになってもおかしくないね。」
そんな叔母を持つ知人から彼女の話を聞いた時、
笑いながらそう答えた。
もちろん半分は冗談ではあるが、
もう半分は本当にそう思っていた。
僕にも88歳になる父方の祖母が滋賀県にいるが、
祖父が退職後にパートをしていたくらいで
そういうキャリアを積むような仕事もしていなければ、
お酒も飲まないし、
タバコも吸わないごく普通の老後を送っていたので、
そんなドラマのような人生を送っている
おばあちゃんがこの世の中にいることが、
頭の中でうまくイメージできなかった。
僕の祖母は12年前に祖父を亡くしてから
滋賀県に1人で住んでいる。
子供を2人産んでいたので、
孫は5人とひ孫も2人いる。
愛知県に住んでいる
僕の父や母が頻繁に帰れない分、
デイサービスやホームヘルパーを駆使して、
毎日家には誰かが来るようになっているが、
僕も名古屋での生活があるので
年に3.4回しか会うことはできない。
僕の本当の生まれは滋賀県で
本籍も未だに滋賀県になっていて、
愛知県に本籍を移動させなかった理由は、
「ちょっと不便でも祖父母がいる以上は、
戸籍上もちゃんと滋賀県との関わりを残しておきたい。」
という母の提案だった。
そんな村上家は
僕の物心がついた時から
お盆とお正月は滋賀県の祖父母の家で過ごしていた。
中学高校の頃は
普通の年頃の男の子と同じような反抗期もあり、
大学に入ってからは
かなり行く回数もまちまちになってきたが、
ここ数年はなるべくお盆とお正月にライブや予定を入れず、
滋賀県に帰り、
祖母と過ごすようにしている。
家族の誰かに指摘をされた訳ではなく、
これから先、
あと何回過ごせるのかと思うと
自然と自分から足が向くようになった。
正直、
帰ったところでやることは特にない。
とりあえず
滋賀に帰ると
毎朝30分くらい健康のために
近所を歩いている祖母と
一緒に早起きして
山菜を採りながら歩き、
昼になってお墓参りを済ませた後、
行きたいところを聞いてから
車でスーパーや100円ショップに
買い物に出かけて、
夕飯はいつも近所のくら寿司に行き、
僕がご馳走している。
せっかくの機会だから、
もっと高い買い物でも食事のお店でもいいと
色々とインターネットで調べては
お店を提案したりするのだが、
結局、
いつもの100円ショップとくら寿司に落ち着く。
本当に欲がない。
1940年代、
祖母は12歳で実家を出ざるを得なかった。
石川県の実家の両親は雇われのお百姓で
他人の田んぼを耕してはお金をもらっていたが、
それだけでは6人兄弟を育てるのに足りなかったので、
大体それくらいの歳になると
兄弟は家元を離れて順番に出稼ぎに出ていた。
最終学歴が小学校でも
仕事はいくらでもあった。
今では考えられない話だが、
あの頃の紡績工場や軍事系の工場の求人担当者たちは
夏頃から地方の貧しい農家をまわり、
年頃の子供たちを見つけると
両親と交渉して、
頭金前払いで何年かの契約を結び、
春から子供たちは親元を離れ、
工場の寮で
働きながら生活するということが
当たり前のようにあったらしい。
それくらいみんな貧しかった。
まだ12歳とはいえ、
頭金を貰っているので、
勝手に帰ることも許されず、
選択肢は寮での暮らしと労働のみ。
あの時、
同じ歳くらいの女の子同士の寮の部屋の中で、
夜みんなが寝ていると
どこからともなく
「お母さん、お父さん。」
と寂しさに耐えきれず、
小さくすすり泣く声が聞こえてきて辛かった
と最近になって祖母は僕に話してくれた。
祖母は第二次世界大戦をこの紡績工場で迎えた。
石川県で大規模な空襲があった日、
工場や寮の至る所で火の手が上がり、
祖母は
「水辺なら安全かもしれない。」
と工場の近くを流れていた浅め川に入り、
どこまでもただひたすらに走った。
川の水を全身に浴びながら
川の周りに転がる亡骸を横目に
ただひたすらに行くあてもないまま、
空襲が終わるまで走り続け、
いつまでも生きた心地がしなかった。
戦後、
出張先で石川県に来ていた祖父が祖母と出会い、
2人は結婚することになった。
これでようやく安心した暮らしが待っているのかと思いきや
祖父の両親との同居も
また違う意味での苦しい生活が待っていた。
馴染みのない、
また身寄りも友達もいない滋賀県での暮らしの中、
姑や小姑は祖母に厳しかった。
「当時はそういうものだった」
と言っていたが、
いくら働いても給料は全て両親に手渡した。
そんな暮らしを見兼ねた祖母の会社は
わざと本来の額と
両親に出す用とで給料の明細を2つに分け、
祖母にもちゃんとお金がまわるように工夫してくれた。
また祖父もたまにはゆっくりと休めるようにと
自分の両親には内緒で
祖母の会社と相談して休みを作ってあげていた。
そんな休みの日は
駅近くの河原の土手に座り、
お弁当を食べながら、
1日のんびりと過ごし、
夕方になると
祖父が河原に迎えにきて、
一緒に家に帰った。
僕が物心がついた時から
祖母は裁縫が得意だった。
これも
自分の家を持ったものの本当にお金がなく、
子供が生まれたが、
服すらまともに買えなかったので、
人から着古した服を貰ってきては、
その服をほどき、
型紙を取って、
自分で新しく布を一から縫って
学生服や普段着を作っていたので、
自然と上手くなっていったらしい。
今でも祖母は裁縫が得意で、
通っているデイサービスで
みんなの服をリサイズしてあげたり、
自由時間で
所長さんからお願いされて
みんなに裁縫を教えてあげている。
自由時間で小さなフクロウの置物を作る際も
4段階くらいの作りかけのフクロウを数体作り、
「今こうなっていて、
ここを縫うと次はこうなります。」
と作りかけのフクロウを
順々に見せながら教えているみたいで
「色々アイデアまで出して頂いて、
本当に助かっています。」
と僕の母がデイサービスの所長さんに会った際にそう言われたと言っていた。
そんな話を聞きながら、
「デイサービスに通う側から
サービスする側に回れる
おばあちゃんって世の中にどれくらいいるんだろうな。」
ということをふと思った。
祖母はよく
「愛される可愛いおばあちゃんになりたい。」
と言っていて、
身内の判断なので冷静ではないかもしれないが、
色々と不遇の時代も多かった分、
僕が見る限り、
少なくとも
家族、親戚を含めた
関わっている人から皆、
愛される可愛いおばあちゃんになっていると思う。
『ストレイト・ストーリー』は
1994年にニューヨーク・タイムズに掲載された実話のコラム
本作の監督であるデヴィッド・リンチの友人が読んだことをきっかけに書いた脚本に
リンチ自身が着想を得て撮ったロードムービーで、
本当に一言で言ってしまうと
杖を二本使わないと歩けないほどに
年老いた弟アルヴィン・ストレイトが
ただアイオワからウィスコンシンまでの
560kmの距離を
時速8kmのトラクターに乗って、
病気で倒れた兄ライト・ストレイトに会いに行くだけの話だが、
観終わった後には
明日一番最初に会った
誰かに優しくしたくなるような
そんな温かい気分にさせてくれる映画だと思う。
『イレイザーヘッド』や『エレファントマン』のような
カルト映画の巨匠であるリンチが撮ったとは、
本当に信じられない内容と空気感。
旅に出るまでは映画を30分くらい観ていても
アルヴィンが一体何者なのか、
家族構成すらほとんど分からない。
しかし
旅を通してアルヴィンが出会う人々と触れ合い、
彼が自分の経験上の話や体験した出来事を
出会った人々に語ることで
少しずつ彼が何者なのか、
なぜ兄に会いに行く必要があるのか
その理由が少しずつ分かってくる。
結局、
人は人を通して自分を知り、
相手もまた人を通して自分を知る。
そんな小さく尊い社会のサイクルが
いくつも繋がってできた
ショートムービー的な作り方もまた
この作品の魅力だと思う。
アルヴィンが語る話は
表面上はただの会話でしかなく、
囁くように言葉数も少ないが、
いつでも自分の人生を相手に少し分けてあげているような
そんな生きるための優しいアドバイスを含んでいる。
この映画を観ていると
やっぱり
老人にはシワや白髪の数だけ
樹木の年輪のように
深く歴史が刻み込まれていて、
ただやたら前置きが長く
声がでかいだけの演説なんかよりも
説得力が全然違うなと痛感させられた。
老人にはその老人の数だけ歴史があり、
スポットライトこそ当たってはいないが、
その一人一人にきっと
連続テレビ小説でも語りきれないほどのドラマがあるのだろう。
ある日、
ウィスコンシンを目指して旅をしていた
アルヴィンは
サイクリングをしている若者の集団と出会った。
夜になり、
若者たちと共にキャンプをしながら、
1人の青年と焚き火を囲んでいると
アルヴィンが
「若い時は自分が歳をとるとは思わんな。」
とふと呟く。
すると
隣に座っていた青年が
「歳をとって良かったと思うことは?」
とアルヴィンに聞いた。
「目も足腰も弱っていい事なんてないが、
経験を積んで
年とともに実と殻の区別がつくようになって、
細かい事は気にせんようになる。」
すると目の前で
キャッチボールをしていた
別の青年が
「それじゃ、年をとって最悪なのは何?」
とアルヴィンに聞く。
「最悪なのは若い頃を覚えていることだ。」
88歳の祖母が今でも比較的健康で
自分の足で歩けたり、
自分の歯でご飯が食べられたり、
裁縫ができる程度に
目や指先の感覚があることを思うと
神様の存在を信じたくなる。
今までこれほどまでに苦労してきたのだから、
老後くらいは多少の体の不自由はあっても
ちゃんと1人で好きなような生活ができるように
通常の88歳よりも
元気な姿にしておいてくれたじゃないか、
夢すら持てなかった激動の日々の中で
最後の最後に
唯一願ったささやかな夢である
愛される可愛いおばあちゃんにさせてくれたんじゃないか、
そう思っても不思議ではない。
ただそんな祖母を見ていて
いつも感じるのは、
「老人は生きているだけで人に迷惑を掛けている存在」
と思っている節があること。
僕がお盆やお正月に帰ると
嬉しそうではあるが、
まず先に
「せっかくのお休みにごめんね」
「忙しいのにありがとうね」
と本当に
「いつも迷惑ばかりかけて。」
とでも言いそうな勢いで、
どこか申し訳なさそうにしていて、
車の乗り降りを支えてあげたり、
買い物の荷物を持ってあげたりすると
「いつもごめんね。」
と僕にすぐ謝ってくる。
「昔なら会いに行けた」
「昔なら自分で出来た」
そんな若い頃の自分の面影が消えないのであろう
祖母の姿を見ていて、
僕はいつも
「会いたくて来てるんだし、
したくてしてるんだから、
気にしないでほしい。」
と答えることしかできない。
僕からすると
祖母は世界にただいてくれるだけでいい。
本当にそれだけでいい。
こうやって昔の話を教えてくれたり、
僕の話に笑ってくれたり、
100円ショップやくら寿司に行ったり、
一緒に朝並んで歩きながら、
「しかし
いつ友哉のお嫁さんは現れるのかしらね。」
とたまに心配してくれたのを
「まあそのうち、
山菜みたいにひょっこり現れるんじゃないかなあ。」
と適当に笑ってはぐらかしたり、
そんな何気ない出来事をただ過ごせるだけで
僕は充分嬉しいし、
他に望むことは何もない。
むしろ本当はもっとわがままを言ってほしい。
自分が本当にしたいことや
欲しいものがあるのなら、
何の気も使わないでねだって
いつでも僕を困らせてほしい。
だって
それくらいのことをしたとしても
バチは当たらないくらい
祖母は自分のためではなく、
人のために今まで生きてきた。
本当にいつもそう思っている。
だから
「来年のお正月は一緒にいれるか分からない。」
なんてことは冗談でも言わないで、
いつまでもずっと長生きして下さい。
追記
冒頭に出てきた知人の東京の叔母が
先日亡くなった話を聞いて、
その時に思ったことを書いたコラムでした。
心よりご冥福をお祈り致します。
親父やお袋とも話すけど、
祖父母と離れて暮らすことが
良いことなのか、
悪いことなのか、
今だに分かりません。
一緒に暮らしていた方が沢山会えるし、
いつでも顔を見て心配できるけど、
離れて暮らしていたからこそ
こうやっていつまでも新鮮な気持ちで過ごせるのかもなあと思えるからです。
それくらい
一緒に暮らしていたからこそ
仲が悪く、
肉親の枠を越えて、
いつまでもいがみ合っている関係の家庭を
見たことがあるから。
いつでも会えなかったからこそ、
離れていたからこそ、
僕は今でも祖父母のことが好きなのかもしれない。
ものすごく寂しい考え方だと思うけど、
もしかしたら現実的で
理に適っているのかもしれませんよね。
もちろん祖父母の人柄も大好きなのは前提として。
祖父が亡くなった後、
滋賀で1人で暮らしたいというのは、
祖母の希望でした。
祖父のお墓から離れたくないことと
今から知らない街で暮らすことが考えられない
という理由でしたが、
何となく本人もそう思っていたのかもなあ。
結局、
祖母の口からはっきりとは聞いてはないけど、
多分、
昔一緒に住んでた
姑と小姑に相当な意地悪をされたと思うんですよ。
とりあえず1つだけ分かっていることは
こうやって祖父母を愛しく思える感覚を持てた
家庭に育ったことに
まずは感謝すべきなんでしょうね。
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